鬼太郎が初恋。私をゲゲゲな漫画家に導いてくれた水木しげる先生死去

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2015年11月30日、私の人生を変えた巨匠漫画家水木しげる先生が心不全のため亡くなりました。
 
私は日本に居た頃に少年漫画家をしていました。
日本で過ごした20代の全てを漫画に捧げてきましたし、30代になって国際結婚をしたのも海外生活を実現したのも、20代の漫画家時代があったからこそでした。
 
少年漫画という存在が私という人間そのものの人生を作ってきました。
そしてその最初のきっかけとなったのが、水木しげる先生の「ゲゲゲの鬼太郎」でした。
 

 


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という事で今回は、水木しげる先生への感謝の想いと、水木作品への想いについて語ります。
 
 
今でもハッキリと鮮明に覚えています。
保育園児だった私は、当時アニメ放送していたゲゲゲの鬼太郎に夢中でした。
 
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私は81年生まれなので、ゲゲゲの鬼太郎は第3シリーズを観ていました。
当時は少年ジャンプ黄金期アニメの影響もあって、鬼太郎の内容も初期の頃に比べると、強烈な恐怖や救いのない話というのは無くなった頃です。
 
存在の薄かった周囲の脇キャラ達の魅力も色濃く描かれ始めて、まさに「鬼太郎と仲間達が友情と努力で悪い妖怪を倒す」という超王道テーマな世界観で描かれてました。
 
私の80年代というのは、もう王道の少年アニメで毎日育ったようなものです。
「聖闘士星矢」「北斗の拳」「宇宙船サジタリウス」といった超男臭いアニメから、「クリーミーマミ」といった少女向けアニメまで片っ端から見てました。
 
中でも「「ドラえもん」「ドラゴンボール」「ゲゲゲの鬼太郎」の3作は飛びぬけて私の心を鷲掴みにしてくれて、毎週のテレビアニメは勿論、劇場版は必ず観に行ってました。
 
 
そして何故かドラゴンボールの孫悟空にときめかなかった私は、ゲゲゲの鬼太郎を異性としてみたらしく、4歳の時に鬼太郎に初恋をします。
異性そのものを理解していない天然少年の悟空と違って、きっちり「男」として夢子ちゃんを守る鬼太郎の姿にノックアウトされたんだと思います。
 
今だったらこの3作品の中で結婚相手に選びたいのは「のび太くん」ですけどねw
年取ったなー私。
 
 
もうクラスの男子とか全く興味なかったんです。
鬼太郎がカッコよすぎて、同じ格好したすぎて母親に鬼太郎のチャンチャンコをねだって、同じ色のものを縫ってもらって着てました。
 
祖母の家にあった古い草履を履いて「妖気を感じる」とか言いながら、下駄代わりに草履を投げてましたからね。
ここまでくるともう、初恋云年以前に、完全に頭おかしい変態な子どもだったと思います。
 
 
で、そんな鬼太郎が私が絵を描くきっかけになりました。
当時はまだ4歳児。おこづかいという言葉も知らないし、鬼太郎のグッズを買うためのお金も自分では稼げません。
 
両親にも相当せがんで鬼太郎グッズ買ってもらったり、チャンチャンコまで作らせてた破天荒園児は、それでもまだ物足りませんでした。
 
「自分で鬼太郎を描ける様になれば、いつでも鬼太郎に会える!」
という何とも変態的な発想から、私は絵を描き始めました。
 
大好きな鬼太郎に会いたいという想いで、とにかく毎日鬼太郎の絵を描きまくったんですね。
段々鬼太郎だけでなく、猫娘やねずみ男達も描くようになりました。
 
 
全然絵心とかなかったですけど、これだけ毎日描き続ければ絵は嫌でも上達します。
 
鬼太郎描き始めてしばらくすると、私は幼稚園の人気者になってました。
いろんな子達からリクエストされたキャラクターを毎日描いてくうちに感じたこと。
 
「絵を描いてこんなに皆喜んでくれる。何て楽しいんだろ」
 
多分この頃からすでに私は、自分が楽しいから絵を描くというよりは、誰かが喜んでくれる顔を見たくて絵を描くようになってたんだと思います。
 
 
保育園児にしてすでに私の将来のいく道を決定づけたのが、保育園の先生の一言。
 
「なでしこちゃんは絵が上手だね!こんな上手なら将来は絵描きさんだね!」
 
そうかあ。。。
世の中には絵を描いてお仕事してる人もいるのかあ。。。
 
保育園児の私はもう心の中ワクワクでいっぱいになりました。
 
 
褒められたのが嬉しくて、それからもずーっと毎日絵を描き続けてました。
 
 

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鬼太郎にハマり続けたまま、小学生になった私は小学校低学年の時に放送開始した「悪魔くん」にもメチャクチャはまります。
 
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「エロイムエッサイム~」から始まる主題歌も毎週アニメ観ながら大声で歌ってました。
私と同世代の方は賛同してくれる人いる気がするんですが、当時、あの歌はメチャクチャかっこいいってことで学校中で流行ってたんですよね。
 
とにかく十二使徒が大好きで、お菓子についてたシール集めまくってました。
 
「百目かわいい~」という純粋な親友とは違って、すでにませガキだった私は鳥乙女ナスカと、こうもり猫の恋の行方に大興奮してましたからね。
こうもり猫と鳥乙女のエピソードが何も出てこない回は「ちっ」てエラソーに舌打ちしてましたからね。
 
 
この時の私にとって鬼太郎はもはや初恋の人というより、親友の様な存在になってました。
というよりこの頃からすでに外国人のカッコよさを理解していた幼稚園児は、男性の好みが変わったようで「ピーターパン」に浮気してるという最低具合でした。
 
 
小学生の時に病院の待合室でふと手にした少年ジャンプ。
 
当時自分が大好きだったゲゲゲの鬼太郎や、ドラゴンボールに原作がある事を知らなかった私。
ドラゴンボールの原作を見て、ベッタベタですが全身を雷で打たれたんです。
 
「ま・・・漫画家!!こんな面白い職業があるの?!」
 
こうして私は修羅の道とも知らずに、漫画家の道を目指したワケです。
んで、少年漫画家になってパニック障害になって、海外飛び出して国際結婚しちゃって、今の人生があります。
 
 
私は今の相方と出会えたことも、今の人生があることも、今周囲にいてくれる大切な人達に出会えた縁も、すべては鬼太郎から始まっていると思います。
私の人生は4歳の時、鬼太郎の絵を描き始めたことで動きだしていたんです。
 
だから水木しげる先生には本当に感謝をしています。
鬼太郎に出会わなかったら私が漫画家を目指していた保証はどこにもないですから。
 
 
数年前にまだ日本に住んでいた頃、都内で「水木しげる展」が開催されて2回行きました。
2回とも、悪魔くん放送当時に「百目かわいい~」と言っていた小学校時代からの親友と行きました。
 
2人とも水木しげる先生が大好きで、親友は私同様に高校時代は漫画家を目指していたので、2人して展示されてる原画の1枚1枚をなめまわすように気持ち悪いぐらいに時間かけて見てました。
 
自分がプロの漫画家になってみて改めて、水木しげる先生の描く世界観や魅力的な妖怪達、何より1コマ1コマ細部まで丁寧に書きこまれてる原稿を見て改めてこの方が巨匠と言われる理由がわかったんです。
 
戦争で片手を失うというハンデを背負いながらも、片手だけでこれほど描きこむってどんだけの熱い想い込めて漫画を描いてるんだこの先生は、と原稿みて涙して周囲の客に気味悪がられてましたからね。
 
 
私の愛読書の1つ、水木しげる先生が自身の人生を漫画で描いた「神秘家水木しげる」を読むと水木先生がなぜこんなにも「妖怪」に魅せられたのかがよくわかります。
自宅2階に妖怪展示室を作ってしまうほどですからねw魅せられすぎw
水木先生自身、人生の中で妖怪という存在を認めざるを得ない体験を何度もしています。
 
「ちょっと不思議な事が身の周りで起きたらそれは妖怪の仕業ですよ」とインタビューでよく仰ってました。
 
妖怪がいるのは天国なのか、現生なのか、それともどこにも属さない空間にいるのか、どちらにしても生前、沢山の妖怪たちに出会ってきた水木先生が、天国に行く途中でも色んな妖怪たちと会って会話してる姿が浮かびます。
 
 
人生の辛い時、何もかもが嫌になった時に私を支えてくれたのは楽しい漫画達でした。
それはこれからも一生変わらないと思います。
 
「ドラえもん」の藤子・F・不二雄先生、「クレヨンしんちゃん」の臼井義人先生、そして今日知った水木先生の訃報。
 
自分の人生に欠かせない漫画の生みの親の先生が亡くなるというのは、本当に寂しいものですね。
 
間違いなく今の自分の人生の道しるべとなってくれた、そして自分の人生を支えてくれた巨匠のご冥福をお祈りするとともに、とにかく感謝、感謝の気持ちでいっぱいです。
 
祖母の家の近くに墓場があるのですが、今度遊びに行ったら、墓場で水木先生が妖怪たちと運動会してるかどうか、見にってみようかなあ。
 

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